2022年11月27日

家康伝説をさがして 浅間界隈をぶら門前 ご紹介 その1

駿河東海道おんぱくでご案内した
家康伝説をさがして
浅間界隈をぶら門前


もうすぐ どうする家康 で盛り上がりはじめた静岡なんですが、
人生の3分の1を過ごした駿府なんですが、
その足跡はあまり知られていないかも?
ぶら門前の様子とともに浅間界隈の家康伝説を2回に分けてご紹介します。

夢門前歴史帖が今回のテキストです。
徳川家康の紹介文には
治水、九十六ヶ町の制定など静岡のインフラを整備し…
とあります。スタートの浅間通り商店街はその九十六ヶ町馬場町宮ヶ崎町からなります。通りと交わる車町は、大御所時代に京 伏見から牛車を引く、今でいう運送業者を住まわせたことが町名由来と云われています。

治水の面では薩摩土手の建設で安倍川の流路を変えるとともに、その豊かな水資源を利用しました。このお堀の水はどこから?
鯨が池から水路によって届きます。商店街の一本裏通りには暗渠となっていますが、今もその流れが。

三加番稲荷のそばには夕顔小路のちいさな石碑があります。
大御所の三大ブレーンのひとり、林羅山はこの辺りに住んでいました。歴史帖表紙の地図には林道春の名で書かれています。
あとのふたり、南光坊天海金地院崇伝もこの界隈に住んでいたそうです。

今川時代からすでに市が立ちお店が並んでいた浅間通り
大御所時代には豪商 的場源七 の屋敷もありました。
そこには 家康伝説
お城に呼ばれて話し相手をしたり、鷹狩の帰りに屋敷に立ち寄ったりと大御所となかよしだった的場源七
ある日、お昼ご飯を食べているときに突然やってきた家康・・・
白米を食べているところを見て激怒
町人の分際でなのか、玄米の方が体にいいからなのか・・・
あせった源七は「これはお米ではありません、おからなんです」
と苦しい言い訳・・・家康公についた嘘を恥じて、その後、的場家では白米を食べずおからを混ぜた切らず飯を食べたとか・・・
この的場家は明治時代まで浅間通りにありました。

安倍街道につながる広い道の向こうにある報土寺
かつては参道で浅間通りとつながっていました
今川時代からの由緒あるお寺ですがここにも家康伝説

大御所時代の慶長18年8月15日には、家康2代将軍秀忠がこのお寺で、家康の父、松平広忠の50回忌の法要を営みました。ここに、ふたりの将軍が来たのですemoji02

これは史実として記録がありますが、ご住職によるとここで法要をしたのにはわけがあったのです。

今川家の人質として八歳で駿府にやって来た竹千代は同じ年にお父さんを亡くしたばかりでした。岡崎の松平家菩提寺、大樹寺と同じ浄土宗の報土寺に持ってきた位牌を安置し供養をしたのです。
心細かった幼い竹千代にとってこのお寺は心のよりどころだったのかもしれませんね。この時のお位牌は第二次大戦の空襲の被害を受けるまでここで祀られていたそうです。現在は後につくった家康父子のお位牌が祀られているそうです。

報土寺には竹千代境内かすぐ近くで暮らしていたと伝わっているそうです。(人質時代の住居には諸説あります)

耐震工事のため降ろされた鬼瓦をはじめ、たくさんの葵紋があります。江戸時代には徳川家からの庇護を受け、大樹寺とのつながりもあった報土寺の歴史を物語っているようです。

次回は浅間神社と近くの小さな神社に残る家康伝説をたずねます。
  


Posted by 浅間通り商店街 at 17:25商店街ニュース夢門前ぶら門前ツアー