2019年04月22日
浅間通り界隈、今川氏ゆかりの地
駿府に今川文化が栄え、東海の一大戦国大名として
功績を残す今川氏
今川義元公生誕500年祭にあわせ、
浅間通り界隈のゆかりの地をご紹介します。
歴史散歩をたのしみましょう!
駿府城公園内と伝わる今川館と浅間神社、賎機山城を結ぶ
静岡浅間通り商店街
地形的にも賎機山の尾根続きの微高地であるこの通りは、今川時代にはすでに門前町として市が立ち栄えていました。

その時代のなごりは残っていませんが、歩道の足元灯にキャラクターになって今によみがえった今川さんと一族、家中が揃いました。


南北朝の時代、暦応元年ごろ駿河の守護となった初代今川範国は、まず、駿河国総社 浅間神社に参拝しました。そこで授かったのが、この赤鳥の旗印です。

室町時代、息子の世阿弥と共に能を集大成した観阿弥の最後の舞台は駿河の浅間神社でした。数日後の至徳元年5月19日、駿府で亡くなりました。
観世流宗家による顕彰碑が総門の右側にあります。

弘治2(1556)年~3年、駿府に滞在していた京の公家、
山科言継(やましな ときつぐ)の日記「言継卿記ときつぐきょうき」に浅間神社と建穂寺で見た稚児舞についての記載があります。これは廿日会祭の稚児舞に関する最古の記録です。
稚児舞がいつ頃から始まったのかはわかりませんが、460年前、今川氏の時代にはすでに舞われ、今川家中の人々も見物していたことがわかります。
浅間神社の石段を上り、見晴らしの良い山道を進むと、今川氏詰めの山城、賎機山城跡があります。標高は170mほどと低いのですが、駿府を一望できる好立地なのです。

大岩の古刹 臨済寺は
僧として修行中の若き日の義元公、栴岳承芳のため建立された善徳院が前身です。花倉の乱の後、家督を継いだのち、兄、8代氏輝を弔うため臨済寺と改めました。開山には師であった京都妙心寺の大休宗休を迎え、義元公幼少からの師、太原崇孚雪斎は二世となり、ここを拠点としました。
駿河の勅願寺に昇格し、今川氏の官寺として勢力を広げるとともに、「歴代序略」などの印刷出版を行うなど、今川文化の中心になりました。

大岩本町の富春院には、墳墓の旧蹟と、戦地で病に侵された義元公を救ったと伝えられる墨崎延命地蔵があります。

宮崎山報土寺は大永2(1522)年駿府宮ヶ崎に開創されました。山号は、浅間神社の三社の中の大歳御祖神社の宮前という意味で、宮ヶ崎町の町名にも由来しています。当時は今川文化が栄えた時期で、山科言継をはじめ、京より下った公家たちも参拝しました。

和歌の名門 冷泉家の為和の記念碑があります。

車町の奥津彦神社。ここにも今川伝説が…
初代 今川範国と、その次男で九州探題としても活躍した今川了俊が信仰した荒神を祀ったとの言伝えがあります。

浅間町、長谷通りを少し入ったところ、若宮八幡宮の
大クスノキを最後に。
樹齢千年と言われるこの木は
今川氏の時代も見つめた、数少ない生き証人です。
これらの史跡の位置は夢門前歴史帖 歴史散策MAPを
ご参照ください。

功績を残す今川氏
今川義元公生誕500年祭にあわせ、
浅間通り界隈のゆかりの地をご紹介します。
歴史散歩をたのしみましょう!
駿府城公園内と伝わる今川館と浅間神社、賎機山城を結ぶ
静岡浅間通り商店街
地形的にも賎機山の尾根続きの微高地であるこの通りは、今川時代にはすでに門前町として市が立ち栄えていました。

その時代のなごりは残っていませんが、歩道の足元灯にキャラクターになって今によみがえった今川さんと一族、家中が揃いました。


南北朝の時代、暦応元年ごろ駿河の守護となった初代今川範国は、まず、駿河国総社 浅間神社に参拝しました。そこで授かったのが、この赤鳥の旗印です。

室町時代、息子の世阿弥と共に能を集大成した観阿弥の最後の舞台は駿河の浅間神社でした。数日後の至徳元年5月19日、駿府で亡くなりました。
観世流宗家による顕彰碑が総門の右側にあります。

弘治2(1556)年~3年、駿府に滞在していた京の公家、
山科言継(やましな ときつぐ)の日記「言継卿記ときつぐきょうき」に浅間神社と建穂寺で見た稚児舞についての記載があります。これは廿日会祭の稚児舞に関する最古の記録です。
稚児舞がいつ頃から始まったのかはわかりませんが、460年前、今川氏の時代にはすでに舞われ、今川家中の人々も見物していたことがわかります。
浅間神社の石段を上り、見晴らしの良い山道を進むと、今川氏詰めの山城、賎機山城跡があります。標高は170mほどと低いのですが、駿府を一望できる好立地なのです。

大岩の古刹 臨済寺は
僧として修行中の若き日の義元公、栴岳承芳のため建立された善徳院が前身です。花倉の乱の後、家督を継いだのち、兄、8代氏輝を弔うため臨済寺と改めました。開山には師であった京都妙心寺の大休宗休を迎え、義元公幼少からの師、太原崇孚雪斎は二世となり、ここを拠点としました。
駿河の勅願寺に昇格し、今川氏の官寺として勢力を広げるとともに、「歴代序略」などの印刷出版を行うなど、今川文化の中心になりました。

大岩本町の富春院には、墳墓の旧蹟と、戦地で病に侵された義元公を救ったと伝えられる墨崎延命地蔵があります。

宮崎山報土寺は大永2(1522)年駿府宮ヶ崎に開創されました。山号は、浅間神社の三社の中の大歳御祖神社の宮前という意味で、宮ヶ崎町の町名にも由来しています。当時は今川文化が栄えた時期で、山科言継をはじめ、京より下った公家たちも参拝しました。

和歌の名門 冷泉家の為和の記念碑があります。

車町の奥津彦神社。ここにも今川伝説が…
初代 今川範国と、その次男で九州探題としても活躍した今川了俊が信仰した荒神を祀ったとの言伝えがあります。

浅間町、長谷通りを少し入ったところ、若宮八幡宮の
大クスノキを最後に。
樹齢千年と言われるこの木は
今川氏の時代も見つめた、数少ない生き証人です。
これらの史跡の位置は夢門前歴史帖 歴史散策MAPを
ご参照ください。
